profport10s.jpg近畿大学医学部免疫学教室
宮澤 正顯のプロフィール

 要点だけ簡単に
 うんと詳しく

 目次

生まれ 1956年 9月
医学部には入ったけれど 1976年 4月
お医者さんにはなったけれど 1982年 3月
出会い、そしてモンタナへ 1986年
モンタナ風景
日本へ帰って 1990年
京極先生の退官、そして三重大学を経て近畿大学へ 1992〜1996年
現在
趣味

生まれ
 昭和31年9月15日、長野県下伊那郡松川町で果樹農家の長男として生まれました。後に心酔することとなる音楽家ブルーノ・ワルターと同じ誕生日で、彼が現役引退を表明した年の生まれです。一番小さいときの記憶は、窓ガラスを通して畳に反射する冬の午後の光に関するもので、子供の頃から現実離れしたことばかり考えていたようです。農家の息子で、梨や林檎の花に囲まれて育ったのに、未だにタンポポとチューリップくらいしか植物の名前は当てられません。記憶力は強いのに、単なる名称の暗記は大嫌いなのです。

       

生家の梨畑から南アルプス仙丈岳を望む

天竜川東岸より中央アルプスを望む

 松川南小学校(後に統合により松川中央小学校となる)の5年生の時、正三角形を張り合わせて出来る多面体の面と辺と頂点の数の関係を公式にしたり、楕円の接線と焦点との位置関係に気付いたりしましたが、このとき「算数クラブ」を指導して下さった先生には深く感謝しています。数年後「大学への数学」で、受験とは無関係なチャレンジ問題に挑戦し、オリジナルな解答でルーズリーフバインダーを貰ったりした素地は、小学生の頃に出来上がっていたようです。
 生意気盛りの中学生の時、日本語文型教育で有名な菅井建吉(=脚本家・菅井 建、故人)先生から教えを受けたことも大きな資産になっています。ラジオクラブでアマチュア無線を始めた(コールサイン JAφQIU)のは余興でしたが、陸上競技の強化選手に選ばれて400mを走り続けたことは、現在の基礎体力作りに大いに役立ってくれたと思います。リコーダーアンサンブルのメンバーとして、テナーリコーダーを吹いて郡の中学生演奏会に出たりもしています。このときソプラニーノリコーダーを吹いていた女生徒は、その後ピアノ教師になりました。創設間もない「日本ブルーノ・ワルター協会」の会員になったのは中学校3年生の頃からです。
 自分のやりたい勉強が出来ると期待して進学した県立
飯田高等学校は、高校が学問の場ではないという点で期待外れでした(それでも、物理学の牛山先生や世界史の近藤先生、それに国語の五味先生など、「学問」の雰囲気を垣間見せてくれた先生方はいました)。受験勉強は全くせず、図書委員として率先してロシア文学・ドイツ文学を読み漁る一方、合唱クラブのリーダーとして混声合唱を指揮し、男声合唱を歌いまくりました。完成後間もない飯田文化会館で行われた、成蹊大学グリークラブ・飯田風越高校合唱団との合同演奏会は、LPレコードとして記録に残っています。
 東京へ夜逃げしてでも音楽家になる積もりでしたが夢破れ、岩波新書で読んだ「自分たちで生命を守った村」を思い出して、農村医療を勉強しようと(!!)東北大学医学部に進学しました。南信州で育った高校生には、東北大学のある仙台市から「自分たちで生命を…」の岩手県沢内村(現・西和賀町)までは丸一日かかることなど知る由もありませんでした。[偶然にも、後に非常勤講師として数年間講義に通うようになる仙台市立看護専門学校の加藤邦夫校長(その後仙台白百合女子大学教授)が、この旧・沢内村診療所の元・所長でした。]

医学部には入ったけれど 
 入学してみると
東北大学には農村医療をやっている先生など居ないことが判りました。その代わり、歩く「グレイの解剖学」とも言うべき石井敏弘教授(故人)、頭の回転に口の筋肉の動きが追いつかないのが学生の目にも良く分かった石田名香雄教授(後に東北大学総長、故人)、産婦人科と生理学の両方の教室主任を務めた鈴木泰三教授など、大勢の名物教授たちの謦咳に接し、医学研究の面白さに目覚めてしまいました。当時薬理学教室の教授だった遠藤 實先生(後に東大医学部長、埼玉医大副学長)の教室に出入りし、単一筋線維を取り出す実験をさせて貰ったり(その結果、自分に生理学者としての発想力がないことを悟ってしまいましたが)、まるで梁山泊のようだった石田名香雄先生の教室で、毎日夜中まで細胞培養とインターフェロン産生の実験をさせて貰ったこともあります。
 そんな中で一番魅力的に見えたのは、病理学を担当された京極方久教授(現・東北大学名誉教授、元・大塚製薬顧問、右の写真)の講義でした。京極先生は神戸大学から東北大学に転任なさった直後でしたが、新しい免疫学の芽を仙台に根付かせようとする熱意が、講義からも教室員の姿からも伝わって来ました。学部2年生(入学4年目)の冬休みに、当時助手だった能勢眞人先生(後に愛媛大学医学部教授、現・名誉教授)に捕まり、実験の手伝いを始めました。初めて自分の手で染めたウイルス感染細胞の蛍光抗体像の美しさに幻惑され (基本的に同じ写真がその後 J. Exp. Med. に載りました)、最初の実験が余りにも上手く行ったことにすっかり「のせられて」、教室に机を与えられ常駐することになりました。それでも臨床講義やベッドサイドの実習を一度も休まず、病理学教室の机から病棟に通う毎日を過ごしたのは、自分にとってそれが最後の臨床経験になると予想していたからでしょうか。

お医者さんにはなったけれど 
 私の卒業を前に能勢先生はスウェーデン・ウプサラ大学に留学してしまい、何と学生の私がたった一人で教室の細胞培養全てを受け持つこととなりました。殆ど詐欺のような形で(失礼!)病理学教室の大学院生になることを余儀なくされ、医師国家試験の数日後には日本病理学会総会で口頭発表を行うことまで決まっていました。
 病理学教室に出入りしていながら病理医の日常生活を知らなかった私には、当時の東北大学病理学教室の剖検システムと自身の研究との両立は、まさに至難の業と思われました。何しろ年間450から、最盛期には500例を越える剖検を、ジュニアとシニアの教室員が組になって、3週間サイクルの24時間当直制でこなしていたのです。1週間に3回の宿直もまれではなく、一晩に5体の解剖 をしたこともありました。4月から剖検当番に加わって、最初の年の暮れまでに30例以上の病理解剖を体験したのは、今では信じられないスピードです。当直の次の週に前週の解剖例の組織を切り出し、パラフィン標本作製のため整形をして技師の方達に発注をするのも、翌々週に仮診断書(肉眼所見のみによる記述)に対する教授検閲のプレゼンテーションをするのも、全て新人を含む「ジュニア」教室員の仕事です。3週間もすれば剖検例の標本が机の上に積み上げられ、それを丹念に眺めては病変を見出し、患者の死に至る経過を明らかにしなければなりません。最終診断書を病理部教員全員で検討する「剖検会」でのプレゼンテーションは、どんなに周到に準備をしても毎回自分の無知が明らかにされてしまう修羅場でした。しかもその間に院内・院外からの生検標本も切り出し・整形と診断をせねばならず、ジュニアとシニアが一緒に標本を見てシニア医師の口述通りに診断書を作製、これを清書して翌日教授検閲に臨むしくみですから、毎日複数の人とのスケジュール合わせが必要です。自分自身が診断者になる数年後までは、殆ど自分の時間が無い生活が続きました。
 それでも研究は続けていたので、教室に泊まり込む剖検当直の日に合わせて時間のかかる実験を計画したものでした。ところが、実験計画は剖検が来ない(そんなことはあり得ない!)前提で立てていますので、ウイルス粒子精製のために蔗糖密度勾配を調製し、超遠心機を回し始めようとしたとたんに剖検の呼び出しがかかるなどと言うことも良くありました。やむなく遠心機の回転が上がるのを待ち、大急ぎで剖検室に走って行くと、既に解剖衣に着替え、ゴムの前掛けを着けたシニアの先生から、「今まで何処にいた!」と怒鳴りつけられることも屡々で、特に厳しかった丹羽 隆・医療技術短期大学部教授(現・同名誉教授)からは、その後数年間不倶戴天の敵のように睨まれ続けました。


 教室旅行: 京極先生は「よく学びよく遊べ」がモットーで、教室には盛り沢山の行事がありました。春は花見、夏は教室旅行、秋は芋煮会、それに忘年会と新年会、「屋外セミナー」も良く行いました。これは御退官の前年、青森県一周の旅の途中で岩木山に登頂したときの写真です。向かって右から二人目、万歳姿がが能勢先生(後に愛媛大学医学部教授)、その隣、右から3人目が藤澤隆一君(現・獨協医科大学准教授)、最後列左、ガッツポーズが京極先生、一人置いて右、同じくガッツポーズが小野栄夫先生(後に東北大学医学部教授)。前列左から二人目は、当時の京極先生の秘書さんで、その後何故か藤澤先生の奥さんとなった現・藤澤明子さん。宮澤はいつでもカメラマンで、自分が写った写真は少数しかありません。

出会い、そしてモンタナへ 
 肉体的・経済的にはかなり辛い毎日でしたが、京極先生の名声のお陰で、日本と世界を代表する多数の高名な医学研究者の姿を早くから間近で見ることが出来たのは幸いでした。当時東北大学では石田名香雄先生が中心になり、薬学部の橋本嘉幸教授(後に日本癌学会会長、共立薬科大学学長、故人)、抗酸菌病研究所(現・加齢医学研究所)の橘 武彦教授(現・東北大学名誉教授)、歯学部の熊谷勝男教授(その後・ティーセル研究所長、故人)、それに京極先生が加わって、「木曜会」なる夕食付き研究討論会が行われていました。ここで各教室の若手研究者が2時間近くに亘り生データを纏めて発表し、それに対して石田・橋本・熊谷・橘の各教授を始め、参加者が歯に衣を着せぬ議論を行っていたのです。仙台ホテルの美味しい食事に加え、優れた研究とはどうあるべきかに関する熱い議論が、若い参加者の肉体の奥まで染み渡る会でした。
 京極先生が班長を務められた厚生省(当時)の「難病の疾患モデル調査研究班」では、愛知県癌センターの西塚泰章先生(後に同研究所長、日本癌学会会長、故人; 宮澤による西塚先生へのオマージュをお読み下さい)、日合 弘先生(前・京都大学大学院医学研究科教授)、当時まだ京大医学部助教授だった白井俊一先生(後に順天堂大学医学部教授)、慶応大学医学部病理の細田泰弘先生(後に慶応大学医学部長)など、多くの有名な先生方のお姿を目の当たりに出来ました。その人が質問に立ち上がるだけで演者が震えると言う雰囲気を若いうちに身近で体験できたことは、とても幸いなことでした。留学から帰られた能勢先生のお陰で、カロリンスカ研究所の Hans Wigzell教授を始めヨーロッパの高名な免疫学者数名を自分の自動車に乗せ、国際免疫学会参加のため仙台から京都までドライブすると言う幸運にも恵まれました。
 アメリカ留学の機会を掴んだのは殆ど偶然からでした。1984年に石田名香雄先生が仙台で国際ウイルス学会を主催され、そのサテライトシンポジウムとしてウイルス感染と宿主免疫反応に関する会議を熊谷勝男先生が企画されました。Michael Oldstoneや Abner Notkinsなど、高名なウイルス免疫学者が参加しました。私はその演者に選ばれ、英語で口頭発表を行いましたが、聴衆の中から背の高く若い(と見えた)男が立ち上がって質問をしてくれました。彼は私の仕事を余程面白いと思ったのか(確かに、その仕事は後に学位論文として J. Exp. Med. に載り、多くのレトロウイルス学の教科書にも引用されるようになるのですが)、シンポジウムの終了後もフロアで私を呼び止め、質問を浴びせ続けました。汚い(失礼!)ジーンズにTシャツ、それにナップザック(!)を背負った背のひょろ高いこの若者(そうです、私の目には彼が若い postdocに見えたのです)の質問に一通り答え、「ところであなたは何をやっているの?」と訊くと、「今回の会議にはマウスのレトロウイルスをグループ分けするモノクローナル抗体の話をしに来た」との答えです。それは丁度、その時私が必要としていた道具でしたので、すぐに教室にセミナーに来て貰うことにしました。教室でのセミナーの後、彼と夫人を食事に誘い、松島の有名な料亭で日本食をご馳走しました。その帰り道、「ところで貴方はアメリカでは何をなさっているの?」と尋ねると、「私は NIHのラボで Chief(部長)をしている」との返事です。本当に「たまげて」しまいました。レトロウイルス学者、そしてプリオンの研究者としても有名な Bruce Chesebroとの出会いでした。(因みに、彼の姓はアメリカ人でも正しく発音できない人が多いのですが、「チーズブロウ(チーにストレス )」と読みます。)
 帰国した彼からは頻繁に手紙が届いて、是非自分の研究室に来いと言います。その頃能勢先生との関係でカロリンスカ研究所の Hans Wigzellの所にも、ベセスダ(NIH)の Jeffrey Schlomの所にも留学の可能性があった私は、かなり迷いました。何よりも Bruceの所属する Rocky Mountain Laboratoriesが、NIH, NIAID の施設とはいえモンタナ州の田舎にあることが不安の材料でした。



 Bruce Chesebro夫妻。BruceはCaltechでノーベル賞受賞者Renato Dulbeccoの教えを受け、ハーバード大学の医学部に主席で合格、在学中に賞金を貰ってカロリンスカ研究所に留学したと言う「超秀才」。その時に撮影したIgM五量体の電子顕微鏡写真(Scienceに掲載)は、現在でも多くの免疫学の教科書に掲載されている。スタンフォード大学の Hugh O. McDevittの下で「臨床研修(?)」を行い、NIHに入って35歳の若さで Lab Chief(部長)になった。2011年のノーベル賞を受けた故・Ralph M. Steinmanは、ハーバード大医学部の同級生(Bruceに言わせると、「同級生の中で一番成績が良くなかったので病理学教室に入った」のだとか)。奥さんのJoanもハーバード大学医学部の同級生で、元・放射線科医、現在はチェリスト兼ピアノ教師。モンタナ州 Bitterroot盆地に数千エーカーの農場を持ち、毎年30頭以上の牛を出荷する牧場主でもある。長女は熊本に留学経験を持つ教師、長男はコロラド州立大学で数学を専攻して、現在はモンタナ州MissoulaのThe University of Montanaで教鞭を執っている。また、次男はJohns Hopkins大学医学部 を卒業し、医師として活躍中。

 最終的に留学先をモンタナに決めたのは、ボスになる Bruce Chesebroの人柄と業績に惹かれたからでした。既に Rocky Mountain Lab.へ Visiting Associateとして留学することが決まった後、カナダでの国際免疫学会の帰りにベセスダのNCI(国立癌研究所)にがん免疫研究で有名な Jeffrey Schlomを訪ねましたが、「モンタナに行く」と言うと、"You must be crazy!  There is no people in Montana." と呆れたように言われたのを、今でも良く憶えています。
 確かにモンタナには大都会はありませんでしたが、美しい大自然と沢山の野生動物、そして素晴らしい研究環境が有りました。3年半の滞在中に Yellowstone国立公園に8回、Grand Tetonへは5回、Gracier 国立公園へは7回以上、Mt. Rainier には2回行き、Canadian Rocky巡り、アラスカ大旅行、ユタ州とアリゾナ州の全ての国立公園制覇も果たしました。それらの殆どが週末を使うだけで出来るのです(アラスカとユタは別ですが)。中古で買ったスバルのステーションワゴンは走行距離16万マイル(25万キロ以上!)にもなりました。
 勿論週日は研究三昧で、沢山の研究プロジェクトを抱え、ラボ内の他のグループとも共同研究を行いました。Bruce Chesebroは大きな研究グループを抱えることを嫌い、基本的に一人一プロジェクトで研究を任されました。と言っても、ガラス器具洗いやメディウム作りは研究所全体で中央化しており、動物実験室にも沢山の animal caretaker達(彼らの大部分は独特の cowboy languageを話す本物のカウボーイ達)が居ますので、研究者は実験操作だけに集中できます。旧い煉瓦造りの研究所ですが、内部にはベセスダと同じだけの実験設備とマンパワーがあり、研究費も潤沢で、アイデアさえ正しく、ボスの信頼が得られれば、やれないことは何もない状況でした。特に有り難かったのは広大な動物実験室を自由に使えたことで、私一人の実験のために数千匹のマウスを維持していました。



 Yellowstone国立公園に程近い Redrock Canyonのカウボーイ。モンタナには西部劇時代の生活が殆どそのまま残っている。

 Bruce Chesebroの名前は良く知られていましたから、国内外の有名な研究者が毎年彼の部屋を訪れ、セミナーと若い研究員とのディスカッション、そしてその後のフライフィッシングやバックパッキング(山行)を楽しんで行きます。Harold Vermus (がんウイルスの研究でノーベル賞受賞)や Irving Weissman (免疫系分化や造血幹細胞研究の権威) と自分の仕事をディスカッションできるなど夢のようでした。


 NIH, NIAID, Rocky Mountain Laboratories正面玄関にて。NIAID(国立アレルギー・感染症研究所)の4つの研究部門 (Laboratories)がモンタナ州 Hamiltonのこの建物にある。標高 1,000mの町で紫外線が強く、空中浮遊細菌が殆ど無いので、クリーンベンチ無しで細胞培養が出来た(私は安全キャビネットを使っていたが)。日本ではあまり色が変わったことのない紫外線反応型の眼鏡が、屋外に出たとたんに真っ黒になる。空の青さは日本では想像できない程で、中心部は真っ黒に近い「宇宙色」をなす。途中帰国した際、仙台市の快晴の空を見て「どうして仙台はいつも薄曇りなのだろう」と思ってしまった。
 なお、この煉瓦造りの建物は「歴史的建造物」であるが、現在では外観を出来る限り保存したまま内部が近代的な研究施設に改修されており、研究部門の再編成も行われて、微生物の病原性決定遺伝子解析やプリオン研究のメッカというべき研究所になっている。巨大なP3レベルの動物実験施設もあり、NIAIDにおける感染症研究の中心施設といっても良い。

 当時 Rocky Mountain Lab.のある Hamiltonの町に住む日本人は私たちだけで、完全にアメリカ人になり切っての生活でしたが、長い黒髪に愛くるしい丸顔の娘(1歳半から5歳の間でした)は珍しがられ、郵便局やスーパーマーケットでは「Kanako(娘の名前)を見たか?」が挨拶代わりに使われる程でした。



 Grand Teton国立公園の湖畔で、3歳頃の長女。母親手作りのエプロンドレスはカナダ国境に近い Eurekaの町で見つけた北欧風のデザインを真似たもので、日本から送られたアニメのビデオテープをよく見ていた娘は、このドレスを「ハイジ子の服」と呼んで気に入っていた。その娘も既に大学を卒業し、獣医師として活躍している。

 私たち家族の後、何故か Rocky Mountain Lab.には日本人が増え始め、東北大学にいる頃から親友だった歯学部口腔外科学講座の森 士朗先生(現・講師)、北大免疫科学研究所(当時)の石原智明先生(その後、酪農学園大学 獣医学部教授)など、その後長くお付き合い頂いている友人達と巡り会いました。
 全くの偶然ですが、石原先生は長野県飯田高等学校の先輩であり、私たちがRocky Mountain Lab.にいたときに共同研究のため同研究所を訪問された塩澤千秋先生(カルガリー大学)も、飯田高校の先輩でした。日本人の殆どいないモンタナに、同じ高校の卒業生が3人も集まったというのは、奇跡と言うよりも、南信州人のロッキー山脈への親和性と見る方が良いでしょう。

 

 Rocky Mountain Lab.の同僚 Mike Robertson (アラバマ大医学部出身の M.D.)と、ラボから自動車で30分ほどのロッキー山中へフライフィッシングに。この時はムース(ヘラジカ)と遭遇した。

モンタナ風景 

 

 

 カナダ国境に近い Gracier国立公園。スイスよりスイス的と言われる美しい山と湖の地。岩をよじ登って生活する moutain goatの親子を目の前で見たり、子鹿やマーモセットに自分の手から餌を上げたりもした。

 

 

 初めて訪れた Gracier国立公園で、森から飛び出してきた子鹿にクッキーを上げる娘。まだ二歳頃の写真。  Yellowstone国立公園に接する Beartooth山地。標高 3,000mの山並みをハイウェイが越える。映画「エアポート」シリーズの一つでジャンボジェット機がぶつかりそうになるのはこの山脈。

 

 

 Yellowstone国立公園は野生動物の宝庫。大火災の前後で公園内の動物の分布は随分変わった。モンタナに住めばシーズンオフにも何回もここを訪れることが出来る。  Gracier国立公園に程近い National Bison Range(国立野牛保護区)の Bighorn sheepの群。この保護区には bighornの他に elk (大角鹿)、deer (普通の鹿、と言っても white tail, mule deer など種類は多い)、antelope (レイヨウ:カモシカの仲間。その肉は甘みがあって極めて美味!)、そして勿論沢山の bison(バッファロー)がいる。

日本に帰って 
 帰国後、再び東北大学の病理学教室で剖検・生検診断、そして研究の日々となりました。但し、今度は病理医としても診断者(シニア)の立場に昇り、自分で病変を調べ、診断書を作れるようになりましたので、ジュニアの頃のように他人とのスケジュール合わせに忙殺されることは無くなりました。剖検の数自体も毎年減少し、年間200例を下回るようになりました。また、帰国前後から各種財団の研究助成金を頂き、文部省のエイズ重点研究班にも加えて頂きましたので、自分の仕事に必要な研究設備は比較的早く整えることが出来ました。
 人との出会いでも再び運に恵まれました。当時京都大学医学部免疫研究施設にいらした栗林景容先生(その後三重大学医学部教授)のグループと、学会での偶然の出会いがきっかけで共同研究を始めるようになり、京都大学理学部の山岸秀夫教授(現・同名誉教授、体質研究会主任研究員)とも知り合いになりました。この共同研究グループから世界に先駆ける沢山の業績を出せたことが、その後の私の進路に良い影響を及ぼしたと思います。東北大学歯学部から大学院生としてやってきた藤澤隆一君と、病理学教室のテクニシャンとして私の研究グループに加わった武井祐美子さんは、帰国後の私の両腕として仕事をしてくれました。



 帰国後の共同研究者達。左より京都大学医学部免疫研究施設(当時)の岩城倫弘君(その後 Bruce Chesebroの下に留学、現在は帰国し、口腔外科医として活躍中)、藤澤隆一君(4年間にわたる Rocky Mountain Lab.への留学から帰国し、平成11年2月より近畿大学医学部細菌学教室助手、2002年からは請われて獨協医科大学に移籍し現在は看護学部准教授として活躍中)、山岸秀夫先生(現・京都大学名誉教授、体質研究会研究員)、上西博英氏(現・農業生物資源研究所・農業生物先端ゲノム研究センター・家畜ゲノム研究ユニット 主任研究員)。

京極先生の退官、そして三重大学を経て近畿大学へ 
 私の帰国から2年後、恩師京極先生は東北大学を退官なさいました。京極先生の退官を記念して国際シンポジウムを開くことが出来、多少はご恩返しが出来たと思います。後任教授は2年近く決まらず、その間教室員は不安な中にも開放感にも満ちた日々を過ごしました。最終的に東北大学医学部は病理学教室を分子腫瘍学の教室に変える決断を下し、私も病理を離れることになりました。共同研究を続けていた三重大学医学部の栗林教授(平成18年3月ご退官)が、私を生体防御医学講座の助教授として呼んで下さったのです。結局東北大学医学部の病理学教室には留学期間を含めて13年ほど在籍し、その間に300体を越える剖検と、数万件に及ぶ生検診断に従事しました。その結果手にしたものは厚生大臣から頂いた死体解剖資格と日本病理学会の認定病理医資格、それにごく少数の症例報告論文ですが、剖検を通じて得た「病気を全身病態から考える能力 」は、研究遂行の上でも学生教育の面でも計り知れない財産になっていると思います。
 三重大学では大きな研究室を一部屋与えられ、再び実験室のセットアップから始めることになりましたが、困ったことに着任の僅か2ヶ月後に近畿大学からお呼びがかかり、免疫学教室の担当教授に応募してほしいと言われました。悩み抜いた末応募を決め、あれよあれよと言う内に、39歳で近畿大学医学部への赴任が決まってしまいました。
 仙台に居る時は「大阪にだけは住みたくない」、「大阪弁で話しかけられても本当のことを言われている気がしない」などと勝手なことを言っていた私たち一家ですが、思いがけず平成8年の春から南大阪に移り住むこととなりました。暮らし始めてみると大阪は何処よりも楽しく住み易く、家族全員もう離れたくないと思うほどです。好きやねん、大阪!


現在 
 現在の私のプロフィールを纏めると:

  近畿大学大学院医学研究科長
  近畿大学医学部教授(免疫学教室担当)、近畿大学大学院医学研究科担当
  近畿大学医学部共同研究施設長・遺伝子組換え共同研究室(P3/P3A)室長
  近畿大学遺伝子組換え実験安全主任者、近畿大学バイオセーフティ委員長
  近畿大学アンチエイジングセンター 所員
  近畿大学リエゾンセンター所員

   The Open AIDS Journal 編集委員 (Editorial Advisory board)
  Clinical Research in HIV/AIDS  編集委員(Editorial board)
  European Journal of Inflammation 編集委員(Editorial board)
  日本病理学会 学術評議員
  日本癌学会、日本免疫学会、日本ウイルス学会、生体防御学会、ワクチン学会 会員
  アメリカ微生物学会 会員

  
 資格:
  医師免許証、死体解剖資格、日本病理学会認定病理医

 受賞等:
  昭和61年度 上原記念生命科学財団海外留学助成金受領
  昭和64年度 東北大学医学部奨学賞 銀賞受賞
  平成元年度 第14回 難病医学研究財団 研究奨励金受領
  平成元年度 上原記念生命科学財団 研究奨励金受領
  平成元年度 東京生化学研究会 研究奨励金受領
  平成14年度 ノバルティス・リウマチ医学賞受賞
  平成18年度 第38回 内藤記念科学奨励金受領

 趣味、社会活動:
  (独)日本学術振興会 専門委員
  (独)科学技術振興機構 専門委員
  兵庫県予防医学協会 休日・夜間HIV検査担当医師
  (株)新日本科学 遺伝子組換え実験安全委員会 社外委員
  (株)UMNファーマ サイエンスアドバイザー
  日本ブルーノ・ワルター協会(休眠中)会員

 
家族:
  妻一人、娘一人、息子二人
  世界中に友人多数

 画像の著作権: このページに表示されている画像(京極教授の肖像を除く)は、全て宮澤が独自に撮影したものです。複製・転載はご遠慮下さい。モンタナの風景や野生動物など、ここに表示された、或いは関連の画像を特に利用したいというご要望がありましたら、宮澤宛お電話を下さい。



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