華岡流医療機器資料室

医聖・華岡青洲

華岡青洲は世界で最初に全身麻酔を行い、乳癌手術に成功した人で、世界の医学史上最も偉大な功績としてアメリカ、シカゴ市の国際外科学会の栄誉館(Hall of Fame)に日本人として始めて遺品が飾られた江戸時代の医師です。近代外科学の黎明はモートンによるエーテル麻酔の発見(1842)と言われていますがこれよりも40年前の1804年のことです。
この偉大な業績は、江戸や京都や大坂など当時の文化の中心地ではなく、草深い紀伊国西野山村の平山(現在の和歌山県紀の川市西野山)で成し遂げられたのです。また青洲は乳癌だけでなく多くの外科手術に成功し、その名声は日本全国に広がり、患者ばかりでなく多数の弟子が日本中から青洲の門下に押し寄せました。
青洲は藩主からの招聘も辞退し、医師として生涯を患者の治療に捧げました。
現在、紀の川市には華岡青洲記念館や華岡家の墓地があります。

近畿大学前総長・世耕政隆は華岡青洲と同じ和歌山県の出身で、医学者でもありました。かねてから故郷の偉人、華岡青洲の業績や人柄に深い畏敬の念を抱いており、念願であった医学部創設に当たり、華岡青洲流の手術器具を医学生に示すことによって医学教育に役立てようと考えました。
また、この外科器具は平成十九年三月、大阪市立歴史博物館で開催された特別展で展示されました。
これだけ多数の華岡流手術器具が揃っているコレクションは他にはありません。

華岡流外科器具

展示されている外科器具は華岡門人である中村順助が使用したものです。 中村順助は駿州岡部在内谷村(静岡市南西)の出身で、安政四年(1857)に大阪中之島の合水堂に入門しました。合水堂は青洲の名声を頼って殺到する患者や弟子のために文化十三年(1816)に青洲が弟の鹿城(ろくじょう)に開かせた春林軒の分塾で、中村順助は合水堂で華岡流の外科を学び、駿州で医療を行いました。
順助が使用した華岡流外科器具は中村家の家宝として代々伝えられてきました。
昭和五十二年九月(1977)、大阪市立博物館で開催された「江戸時代の科学技術展」にこれらの手術器具が出展されたのを機会に近畿大学が中村家から譲り受けたものであります。

外療道具価附
京都寺町の鍛冶・真龍軒安則

青洲が文化元年(1804)乳癌手術に成功すると、その名声を聞いた患者や門弟が日本全国から殺到しました。青洲は京都寺町の鍛冶・真龍軒安則に外科器具の作製を依頼し門弟はこの器具により医術を習得し、故郷に帰ってから医業を続けました。
展示されている外科道具の値段表は木版摺り、35種類の手術器具の価格が書かれています。
華岡流の手術器具が商品化するほど普及したことを窺わせます。
この中には青洲の創案といわれるコロンメスやバヨネット型曲剪刀なども含まれ、長崎の蘭方医に劣らないほど多様で精巧です。

コロンメス

バヨネット型曲剪刀

青洲の生い立ち

曼荼羅華

青洲は郷里平山で医業を開いていた父親直道の長男として生まれ、天明二年(1782)に22歳で京都に出て医学を学びました。このとき紀州の田舎で医業を営む家庭には十分な学費がなく、母・於継、妻・加恵、妹・小陸が織物で学費を稼いだといわれます。
京都では古方医・吉益南涯や蘭方医のカスパル流外科医・大和見立に師事しました。
この間に魏の名医・華佗の全身麻酔の伝説を聞き、「日本の華佗になる」と決意したそうです。
父の病没により草深い平山に帰郷した後も医道への情熱は絶えることなく、内外合一(内科も外科も同一)として薬草を採取して多くの和漢薬を調合しました。その中に乳癌手術に用いた全身麻酔薬「通仙散」があります。通仙散は曼陀羅華(マンダラゲ)を主成分とするもので、動物実験を重ねたすえ、母親の於継と妻加恵の献身的な協力により実用化されました。
上の絵はアメリカ、シカゴ市の国際外科学会の栄誉館(Hall of Fame)に展示されている立石春美画伯(伊東深水画伯高弟)筆の写しです。
通仙散の実験の様子を描いたもので、眠る妻加恵と見守る青洲と母於継が描かれています。

解体発蒙の図

文化十年(1813)に三谷公器により書かれた人体解剖図が展示されています。
現代の人体解剖図に劣らないほど正確であり、当時をしのぶ貴重な資料です。
江戸時代の中頃までは、日本の医学は中国から伝来した“古医方”で経験的観察の医療であったのに対し、山脇東洋の日本最初の人体解剖、宝暦四年(1754)、杉田玄白の「解体新書」安永三年(1774)など実証主義の医学が発達しました。
青洲の内外合一・活物窮理の思想は古来の医学と新しい実証医学の統合や実証主義による医学の重要性が主張されています。

青洲流の薬箱・薬籠・薬袋

青洲流の薬籠・薬袋

青洲流の薬物は貴重な資料です。薬袋の表面に書かれている「医・唯・活・物・窮・理」の文字は薬物の分類記号として使われていますが、この言葉は青洲の哲学ともいえる「医は唯活物窮理に在り」に由来するものです。「人身の道理を格知して後、疾病を審らかにするに非ざれば、則ち極致に至ること能わず。それ生々の道もと活物なり。必ず膠柱して之を論ずる勿れ」という意味であります。
解体新書が出版された当時、人体の解剖・生理を熟知して疾病を明らかにしなければ極致に到達できない。また、治療に当たっては患者の個性を重視し、原則に拘り変化に適応できないのではいけないということであります。青洲は書家としても有名で沢山の書を残しています。
薬袋の「医・唯・活・物・窮・理」は今日の医療にも通じる思想です。

手術の縫合糸

絹糸

中村家に伝わった青洲流の医療器具の中に手術材料も残っていました。とくに注目されるのは縫合糸で、青洲自身は麻糸や木綿に白蝋を塗ってすべりを良くして用いたようです。
展示されている縫合糸は絹糸です。縫合糸は体内に残されるために異物反応を起こしやすいのですが、異物反応は絹糸で防止できます。
現代医学でもごく最近まで縫合糸には絹糸が用いられていました。
異物反応が解明されていなかった時代にすでに絹糸が縫合材料として用いられたことは、興味ある進歩を見ることができます。

(解説:近畿大学名誉教授・安富正幸)

近畿大学医学部図書館
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